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シリーズ特集「松尾祭」(6)|松尾七社「櫟谷社」をご紹介(2018-2019年度)

松尾祭特集

2019/2/07

シリーズ特集「松尾祭」 第6回 (2018-2019年度)


松尾祭では五番目に神輿巡幸されます

松尾七社「櫟谷社いちたにしゃ」をご紹介

千余年にわたり受け継がれる、伝統の京の神輿祭

(取材撮影協力/写真提供:松尾大社六社青年連合会、櫟谷会、櫟楽会、櫟谷社青年会)

※本シリーズの取材撮影は、2018年から2019年度にかけて行ったものです。

 

松尾七社「櫟谷社」

松尾祭で神輿巡幸を行う松尾七社。五番目に巡幸される「櫟谷社」のにスポットを当て、櫟谷社の歴史、神輿巡幸での見どころや魅力をはじめ、地域に根ざした地元氏子区域での独特な取り組みや活動なども併せてご紹介します。

 

櫟谷社いちたにしゃの御祭神、御由緒、氏子区域


櫟谷宗像神社

◎櫟谷社の御祭神・鎮座地・御由緒

鎮座地:櫟谷宗像神社(松尾大社境外摂社/京都市西京区嵐山中尾下町61)

御祭神:福岡県宗像大社の御祭神で、宗像三女神の一神「奥津島姫命(おきつしまひめのみこと)/別名:多紀理姫命(たぎりひめのみこと)」が祀られており、沖の島に坐すという意味から水難の守護神として、また金運や財運、縁結び、芸能など多くのご利益のある神とされています。

例祭日:1月3日

御由緒:飛鳥時代から平安時代にかけて編纂された史書「六国史」によると、嘉祥元年(848)に従五位下の神階を授かり、貞観10年(868)には正五位下が昇叙されたと記録が残っています。また「延喜式」の神名帳では、山城国葛野郡に櫟谷社が記載されており、式内社としても列せられています。なお、その注として松尾末社であることも記されています。
明治10年(1877)には松尾大社の境外摂社となり、櫟谷社と宗像社の2社が1殿に併せる形で祀られるようになりました。松尾大社、月讀神社とともに、松尾三社のひとつとされています。

◎櫟谷社の氏子区域

西七条地区(南東野町、北東野町、御領町、西八反田町、東八反田町)

 

古くは「西七条村」とされる地域で、西野町、中野町、東野町の三町で構成されており、櫟谷社は東野町、宗像社は西野町と中野町とされています。

綱敷行衛天満宮での様子

明治期に入ると、四之社、宗像社、櫟谷社、大宮社の神輿と月讀社の唐櫃が着御されることになった西七条御旅所ですが、それ以前は3つの御旅所に分かれていました。櫟谷社の御旅所は、現在の「綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)」の地に鎮座していたとされています。なお、現在の綱敷行衛天満宮の本殿は、実際の櫟谷御旅所の延石(柱を置くための基礎石)の上に建立されています。(写真は、かつての櫟谷御旅所の所在地を示す、櫟谷社に残る古地図)

櫟谷社の氏子区域

「綱敷行衛天満宮」つなしきゆきえてんまんぐうの御祭神・鎮座地・御由緒

鎮座地:京都市下京区御前通北小路下ル西七条北東野町

御祭神:菅原道真公

例祭日:不明

御由緒:建立は不明ですが、もともと「綱敷天満宮」と「行衛天満宮」の二社に別れており、現在の地には「綱敷天満宮」、いまより西側の地には「行衛天満宮」があったとされ、いずれも洛陽天満宮二十五社に数えられていました。
「綱敷天満宮」は、延喜元年(901)に菅原道真が大宰府に左遷された際、博多に上陸した道真のために船の綱を敷いて御座にしたところ、一夜にして白髪になったことで、その様を画にしたことから、綱敷天神像や一夜白髪の御影と呼ばれています。社名はその神像を祭ったことを由来としています。
「行衛天満宮」は、「靭負(ゆきえ)」が正しいとされ、右京区の西靱負小路に面していたことから、社名になったとされています。また西靱負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門から唐橋を経て、「吉祥院天満宮」に通じる道であり、道真はこの道を利用して吉祥院に通ったといわれています。
両天満宮は昭和9年(1934)に区画整理により合併され、現在、松尾大社の境外末社となっており、氏子地域の方々から「天神さん」の愛称で親しまれています。

綱敷行衛天満宮

かつての櫟谷御旅所があった地に、綱敷行衛天満宮があるということからも、現在も櫟谷社と綱敷行衛天満宮は深い関係を持っています。松尾祭においては、還幸祭(おいで)と神幸祭(おかえり)の両祭の当日に、氏子区域内で鐶鳴らしを行いながら綱敷行衛天満宮へ向かい、担ぎ手の方々がこの地に集合するという習わしがいまなお続いています。
(写真下は、還幸祭当日に行われる鐶鳴らし後の櫟谷社青年会による記念撮影)

綱敷行衛天満宮での様子

(写真:櫟谷社青年会の皆さん)

前列左より 副会長 山本泰正氏、副会長 前田邦泰氏、会長 田中透氏、神事部長 山本隆平氏、筆頭副神事部長 山本真司氏、(手前)副神事部長 山本貴史氏、副神事部長 服部大輔氏、神事部 橋本宝夫氏

後列左より 青年会相談役 中野大輔氏、神事部 松田宗久氏、神事部 浅本克彦氏、会計 道明嗣忠氏、神事部 山田幸太郎氏

 

 

― 櫟谷会・櫟楽会櫟谷社青年会の方に訊く ―
松尾七社「櫟谷社」の神輿


松尾七社「櫟谷社」の神輿

櫟谷会会長

「櫟谷社」の神輿の特色や特徴
櫟谷社の神輿の歴史では、文政5年(1822)に西七条村の大工・村上金右衛門源宗保が棟梁となり、遠藤金右衛門光重が細工師として建立されたと記録が残っています。当時の神輿は、屋根と御堂が白壇塗りで、金梨地塗りの四本柱には化粧金具が付けられ、木彫り部分や屋根軒裏は極彩色の姿をしていたとされています。
天保3年(1833)には、東四社(※1)の一社が御堂周りを、現在の姿のような金装飾にし豪華絢爛にされたことから、櫟谷社でも弘化3年(1846)に御堂周りを総金金具の神輿に大改修したと記録が残っています。
(写真右上は、神輿新調時の解体であらわとなった極彩色の木彫り)
(写真右下は、櫟谷会会長 中村桂介氏)

櫟谷社の柔構造

神輿の大きな特徴としては、その「構造」にあげられます。京都の多くの神輿は、黒轅に大引きを渡し、その上に四本柱を建て、御堂部分を四本柱に通して組み立てる「剛構造」を採用しています。櫟谷社の神輿は、黒轅に直接四本柱を建て、四本柱の側面にある溝に一枚板を落とし込む小屋組を採用した「柔構造」になっています。櫟谷社の轅下以外の方々が担がれる際、「櫟谷社の神輿は柔らかい」とよく話されるのは、多くの神輿とは異なる「柔構造」によるものなんです。
神輿の屋根の上にかける五色の御衣(※2)についてですが、櫟谷社では昭和55年(1980)、平成21年(2009)に新調しています。約25〜30年の周期で作り変えを行なっています。

※1 東四社とは、四之社、宗像社、櫟谷社、大宮社のことを指します。
※2 御衣・御絹衣(おきぬ・おきぬい)とは、神輿の屋根に掛ける五色の布のことで、白・黄・緑・紫・赤の順に飾り付けていきます。それぞれ菊紋が入れらています。

櫟谷社の神輿新調

櫟谷社では、氏子区域の皆さまをはじめ多方面からのご協力もあり、平成25年(2013)に神輿が新調されました。(写真上は、新調した際の宮入の様子)

 

櫟谷社の鳴鐶

櫟谷社の鳴鐶

「櫟谷社」の鳴鐶(なりかん)について
櫟谷社の現在の鳴鐶(鳴釻/なりかん)(※3)は、文久3年(1863)に製作され、大正4年(1915)に新調されたと記録されています。現在の松尾祭でも、その新調した際の鳴鐶を実際に使用しています。形状の特徴としては、龍頭の意匠を取り入れており、龍の眼には貴石が埋め込まれています。3枚の鳴板(座金、または鐶ベタ)を含め、すべて真鍮製でできており、総重量は約16kgほどあります。
※3 鳴釻(鳴鐶)は全部で4つあり、神輿の轅(担ぎ棒)の先にそれぞれ取り付けられます。上下に揺さぶられることで、板が跳ね美しい音が鳴り、神輿の合図になったり厄除けになるともされています。また、京都独特のこの神輿の鳴釻(鳴鐶)は松尾祭が発祥ともいわれています。

櫟谷社のマーク

「櫟谷社」の法被(袢纏)やマーク
櫟谷社の法被(袢纏)の背中には、轅鐶金具にも刻まれている「双葉葵」の紋が施されています。昭和50年(1975)頃より採用され、櫟谷社のシンボルとして確立されました。なお、櫟谷社の帯は茶色で統一されています。

櫟谷社の神輿の担ぎ方

「櫟谷社」神輿の担ぎ方・巡幸
神輿の掛け声など、各社に比べテンポがゆっくりめなのが特徴です。これは先述の神輿が柔構造であることが関係しており、深く沈めてから戻すという担ぎ方が、自然とゆっくりめのスタイルになることに繋がっています。

櫟谷社の組織構成

(写真:櫟谷会、櫟楽会の皆さん)

前列左より 櫟谷会総務部長 平尾善史氏、櫟谷会副会長 荒木勝巳氏、仲上博和氏、櫟谷会会長 中村桂介氏、櫟谷会副会長 橋本尚樹氏

後列左より 内田和良氏、櫟谷会副神事部長 豊田全啓氏、山本隆正氏、櫟楽会会長 川端啓史氏、櫟谷会副会長・会計 香川哲也氏、櫟谷会神事部長 石田雅裕氏、櫟谷会副会計 渋谷忠雄氏、櫟谷会副神事部長 谷口広幸氏

「櫟谷社」の組織とは
櫟谷社は15の支部で構成された「櫟谷会」で運営されており、下部組織として実際に運営執行を行う「櫟谷社青年会」があります。また、後世に櫟谷社を残すためにも青年会に指導などを行っている「櫟楽会」の組織も存在しています。

 

 

― 櫟谷社青年会の方に訊く ―
松尾祭や神輿に対する想いや考え


櫟谷社の神輿

櫟谷社青年会長

櫟谷社青年会長に訊く、松尾祭に対する想い、魅力とは
地元氏子の祭で、歴史と伝統を持ちながら、6つもの神輿が織りなす壮大な祭はそうないと思っています。各氏子が持つ歴史的背景もそれぞれで、神輿の伝統や担ぎ方が異なってはいても、互いに尊重協力をし、切磋琢磨している姿は誇らしくも思います。目に見える部分では、松尾祭の見所や魅力はたくさんあると思います。ただ、世代や時代、氏子地域の垣根も越え一体となって松尾祭に取り組む姿も大きな魅力であり、私たちがこれからも守っていかないといけない財産だとも思っています。
(櫟谷社青年会会長 田中透氏)

櫟谷社青年会長

松尾祭で一番気をつけていること、神輿に対する想いや魅力など
松尾祭が行われるなかで、無事に巡幸できることが何よりも大切だと思っていますので、そのための準備や関係者への周知には、徹底して気を配っています。平穏無事に終えることこそが、地域の皆さまはもとより、すべての方に対して、松尾祭の素晴らしさを伝えるうえでの大切なメッセージにもなっていると思います。
神輿の魅力でいえば、各社がそれぞれ持つ歴史や伝統文化が神輿にも現われていることではないでしょうか。轅下が歴史や文化を共有し、神輿を担ぐことで生まれる一体感や連帯感は、なかなか経験できない素晴らしいものだと思います。
(櫟谷社青年会副会長 前田邦泰氏)

 

― 櫟谷社青年会の方に訊く ―
地域での活動や皆様へのメッセージ


櫟谷社青年会

(写真:櫟谷社青年会の皆さん)

櫟谷社の神輿

後世に残したい、次世代に引き継いでいきたいところとは
松尾祭は1000年以上も続いている、京都を代表する伝統的なお祭です。長く続く歴史の中で、「いま」という時間は一瞬ですが、この積み重ねと連続が後世へ引き継いでいくうえでの大事な礎になっているのだと思っています。時代は違えど、いまも昔も祭や神輿に対する想いは同じだと思いますので、絶やさずに次の世代へしっかりと伝承していきたいと思っています。
(櫟谷社青年会神事部長 山本隆平氏)

櫟谷社青年会会長

氏子区域、地域の皆様へ伝えたいメッセージなど
地元の皆様には、松尾祭での神輿巡行などで、大変お世話になっております。地元の暖かく惜しみないご支援やご協力は私たちの励みにもなっており、神輿を担いで地元に戻ってくると、いつも気が引き締まる思いをしています。
櫟谷会ならびに青年会に対しましては、よりいっそうの力添えとともに、今後とも引き続き宜しくお願いをしたいと思います。

櫟谷社青年会

櫟谷社青年会では、松尾祭以外でもさまざまな地域活動を行っています。
毎年夏に地元の商店街である七条中央サービス会で開催されるサマーナイトフェスティバルでは、青年会として模擬店も出店し、地元の子供たちに楽しんでいただいたりする活動もしています。青年会としても、地域への貢献も大切だと考えていますので、今後もこのような活動にも力を入れていきたいと思っています。
(写真は昨年度行われたサマーナイトフェスティバルの様子)

商店街での巡幸

西七条御旅所

松尾祭の見どころや魅力など
松尾大社で行われる「拝殿廻し」や桂川での「船渡御」はよく挙げられると思いますが、松尾祭の巡幸は広く、地元の氏子地域での見どころもたくさんあります。櫟谷社の場合、神幸際(おいで)では、七条御前から繰り広げられる担ぎ上げの勇壮な姿、西七条御旅所への宮入りなどは迫力あると思います。また還幸祭(おかえり)では、朱雀御旅所から七条御前まで七条通を担ぎっぱなしで巡幸しますので、ぜひ見ていただきたいところだと思います。

  

櫟谷社青年会からのお知らせ


櫟谷社の関係者

櫟谷社青年会では、新規の参加者、担ぎ手の方を募集しています。一緒に神輿を担ぎ、世代を超えたコミュニケーションをしてみませんか。神輿を担ぐだけでなく、地元の方々と深い交流ができるのも魅力のひとつです。

地域の方々にとっては、地域のコミュニティに参加していただけるまたとない良いきっかけだと思います。ぜひご友人などお誘いの上、お気軽にお問い合わせ・ご参加してみませんか。

《最新情報や連絡先等はこちら》

松尾大社六社青年連合会 facebook

櫟谷社 公式facebook

上記facebookページからメッセージにてお問い合せください。

 



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